昭和61年4月21日
保護者様
校長 田崎和夫
新緑の季節となり、保護者のみなさまにおかれましては、ますますご健勝のこととお喜び申しあげます。新しい年度がはじまり、お子さまたちは希望を胸に元気に登校しています。
さて、お子さまの日ごろの活動をご覧いただきたく、下記のとおり学習活動参観および学級懇談会を計画いたしました。お忙しいこととは思いますが、万障おくりあわせのうえ、ご出席くださいますよう、よろしくお願い申しあげます。
1. 日時
5月14日(木)
・学習参観 1時35分より
1・2年生 国語
3・4年生 算数
5・6年生 図工
・学級懇談会 2時35分より
2. その他
・自動車やバイクでの来校はご遠慮ください(原付、自転車は可)。
・自転車は所定の場所に駐輪してください。
・上履きは各自でご用意ください。
母のあゆみ
――今日やんか。
今日のこの日、まさに五月十四日という日づけが、机の下から見つけたプリントのうえで光って目を射ぬいた。掃除機をかたわらに座ったまま、神尾晴子はその日づけを見、壁のカレンダーを見、何度も見くらべて、その事実に間違いのないことを、いやというほど思い知った。
「あのアホ」
腹立ちといっしょに紙をまるめる。隠しよって。黙っとりよって。なんでウチに言わんのや、――。
――言えるわけないな。
しょせん赤の他人だった。いやまんざら血がつながっていないわけでもないが。中途半端なつながりが、かえっていっそうふたりの距離を遠くした。他人だからと念じていないと、うっかり近づきそうになる。観鈴の存在は、晴子にとって、それだけの引力を発する、確固たる質量をもった存在だった。
「そや。向こうもウチが必要ないっちゅうこっちゃな」
丸めた半紙を肩越しに投げ捨てた。そうにちがいなかった。なにせこの手の行事は毎年、ひょっとしたら年に複数回あったはずだ。観鈴がここに来て何年になるか。三年、四年、それとも五年? あるいは二年か六年か、――じっさい晴子は、正しい年数を理性で記憶していた。しかし悟性で知らないことにし、感性で蓋をした。そんなことを覚えていてなんになるというのか。
だいたい観鈴がこの神尾の家に来てもう何年もたつのに、この種のお知らせをうけとったことがないのである。ずっと隠しつづけてきたのだろう。なぜ? 自問し、答えは容易に導かれた。
――来てもらいたくないからに決まっとる。
それが晴子への気づかいか、それともそのほかの不都合のためかは問わないとしても、来てほしければ、無邪気な笑顔で『おかあさん、こんど参観日があるの!』とお知らせのプリントをうれしげに見せるだろう。すくなくとも晴子はそうだった。来てほしいような来てほしくないような、いや来てもらいたいのだけど来られると学校内でのアレコレを知られてしまう、氷と炭のようなアンビバレンツ。プリントを母に見せるときの、くすぐったい、脇がムズムズするあの気もち、――
つまりそういうことなのだろう。
「はん、アホらしい。だいたいウチは、腹を痛めたわけでもない子供の参観日にでるために、平日休んどんとちゃうしなー」
それは欺瞞だった。観鈴のために休んだのではないことは真実だったが、それではほかに何かアテがあって休みをとったのかと言えば、否と答えるしかない。そもそもわざわざ休暇をとったわけでもなく、たまたま仕事のスケジュールでそうなったという、それだけにすぎないのだ。休みの日にやることなどまったくなかった。約束のない日々こそ晴子の求めるものだった。観鈴とも、ほかの何者とも。孤独を天性にせねば均衡を保てないほど彼女はひとりだった。
それもこれも、あのクソッタレな橘敬介が、晴子のための冷たい平穏に、無遠慮に干渉してくるまでの話だ。観鈴。あの呆け。なんであんなのが、こんなにも自分の心を乱すものか。晴子には見当もつかず、そのことがまた彼女をいらだたせた。
晴子は畳をふみつけて立ち上がり、自分の姿を見下ろした。ノーブラにタンクトップ。パンツ一枚。長い髪は梳かしもせず、起きぬけの顔には目ヤニがこびりついている。
「これがウチや。モンクあるか」
孤独のなかで、文句を言う他人は皆無だった。だいたい参観日なんて、着飾ったママさんたちの集まりだ。キレイな服なんて持ってない、――晴子はかつて、母がきれいな、女性的な服をきて参観日に着てくれたことを実に誇らしく思ったものだった。母親とは参観日に、きれいな女性的な服を着てやってくるものなのだ。スカート? ウチが? ウエーッ!
逆らうようによれよれのシャツをきて、くたくたのジーパンをはいた。顔などあらわない。髪を無造作に束ねた。ほかに何がいるだろう。化粧か。鼻毛をチェックするだけの鏡台。ハハハ。時計を見る。もう昼すぎだ。参観がはじまるまで、あと一時間半。どないせっちゅーねん。
腹はへっていなかった。どすどす音をたてて台所にゆき、冷蔵庫をあける。ビールの大瓶が三本はいっていた。一本をとりだし、テーブルにおいて、栓抜きで栓を景気よく叩こうとし、目測をあやまって栓をかすめて転倒させた。あっと声をあげる間もなくテーブルの高みから転げ落ち、肩をちぢめた瞬間ガッシャという音とビールから気が抜けていく音、――
「なにやっとんねん」
ため息、破片をかたづける。床をふく。もう瓶ビールはやめようと思う。酒屋の回収も面倒だ。そろそろ缶への切りかえどきだ。ビールの匂いでなんだか胸がわるくなる。あかん、だめや、二本目に手をつける気がのうなった。時計を見る。十二時半をまわっている。掃除のつづきでもしょっか。そもそもあのプリント自体、慣れない掃除にうっかり手をつけて、迂闊にも観鈴の机の下の埃だまりから見つけてしまったのだった。見つけなければいまごろのんきにゴロゴロできたのに。屋内はゲンが悪い。庭掃除をしよう。雑草の植民地。
サンダルつっかけて庭に出る。こんなにしみじみ庭を見たのはどれくらいぶりだろう。まったく思い出せない。どこから手をつけたものだろう。雑草の緑の海のなかに、白さ赤さも目に彩なつつじの花が咲いていた。胸が甘くちぢんだ。姉の好きだった花だ。時季をえてはなやかに咲きほこらせた枝たちは、しかしろくな剪定もされず、不恰好にあちこち伸びてちっともまとまりがない。あれに手をいれてしまおう。つつじの剪定は花八分。すでに盛りをすぎた感もあるが、あたらしい花芽のつくところさえ避ければ、いまからでも遅くはないはずだった。
剪定ばさみをもちだして、からんだ枝、枯れた枝、ひこばえ逆枝風とおし、刃をふるって切る、切る、切る、――
――ウチ、なんでこんなこと熱心にやってんねやろ。
決まっていた。現実逃避のためだ。ブチブチ枝を切る感触は快くも心を落ちつかなくさせた。いまやるべきことはこれか。優先順位は正しいか。清楚にひらいたつつじの花が姉の微笑に見えた。記憶などとうに薄れているのに、なにかつまらないきっかけで、ほんとうに故人がそこにいるような、そんな生々しい錯覚がふとよぎることがある。死人ってずるい、と晴子は思った。与えることより押しつけることのほうが多すぎる。それだけ多ければ、去来する感情すべてを無視するなんてできやしない。血は水でないし心は鉄でない。晴子は観鈴の時間割を思い出そうとした。今日の午後一の授業はたしか理科だ。安心した。もしか国語で、まかりまちがって「わたしのおかあさん」とかいう題で作文を書かされていたりしたら、ひどくいたたまれない結果になったにちがいない。理科くらいでちょうどいい。感情がはいる隙間がないから痛快だ。それなら見るに堪えるじゃないか、――
「だから行かへんっちゅーに!」
ブチン。
「ああっ」
花をつけた枝が落ちるのを晴子はじっと見守った。来年の花芽は、花の咲いていたところから伸びる。これでひとつの可能性を摘んでしまったわけだった。まてよ、と彼女は思った。剪定する時期、間違ってへんやろか。つつじは花八分でなく、花のあとちゃうかったやろか? 枯れた花を房ごと抜いて、――ふだんやらないことを無理にするとこれだ。晴子は鋏を投げすてた。空を見るとよく晴れていた。なにもかも間違っているような強迫的な感情。空に見下ろされているのだ。
――いったいウチは、なんで観鈴の時間割なんて記憶してたんやろう。
空に吸いこまれるように立ちあがり、――ふっと目の前が黒くなった。足をもつれさせ、反射的に伸ばした手がつつじのなかに放りこまれ、バキバキ音をたてて枝を折った。目がくらんだようだった。空もろくに見れないのか。
視界が落ちつくと、晴子はゆっくりつつじの中から手をぬいた。ひどく謙虚な気もちで、それは惨めな気もちと、すくなくともこの場合、どれだけのちがいもないようだった。すごすご屋内にもどり、あのまるめたプリントをひろって、ひろげて眺めた。ツラツラと字を目で追い、そして、――
「さんすう?」
晴子は首をかしげた。たしかに観鈴の学年には算数と書いてあった。晴子は観鈴の部屋に行って時間割をあらためた。たしかに今日の午後一は理科だった。国語社会図工図工理科――なるほど参観日は特別な時間割を組むらしい。理科にさしかえ、学年統一で算数をやるわけか。観鈴の歳のころ、いったい自分はどんなことを学んでいただろう。ふと興味をもって、彼女は机の上の本棚を目で追った。算数の教科書はすぐに見つかった。パラパラめくる。割り算グラフ三角形に四捨五入――ああこの程度なら問題なくウチにもわかる、――
――あれ。
ひどい違和感。なんでやろ。首をひねる。別に内容に問題はないはずだ、もういちど教科書をバラバラめくる。おかしい。背をつまんでバッサバサと振ってみる。やはりそれは、なんの変哲もない算数の教科書で、――
「なんでここに教科書があんねん」
思いつきは考えより先にやってきた。算数やろ。授業あんねやろ。なんでいま、ここに、その算数の教科書が! 晴子はあらためて時間割を見た。国社図図理。
算数は、ない。
「あのアホちんがー!」
間違いよった。そうに決まっていた。参観日であることを忘れて、いつもの時間割で登校したのだ。いや忘れたのでなく、忘れたかったのか。そうかもしれない。そうでないかもしれない。観鈴はなんにも言わないから判断なんてできない。観鈴は沈黙を守っている。教室の机でも。親たちが背後にならぶ。子供たちはおちつかない。自分の親は来ているか、ふりむいて確かめたい衝動。教科書を見てもうわのそらだ。観鈴はひとり、真っ白なノートを見ているのだろう。となりの子に見せてもらう? あの子が? ありえへん! ぎゃあぎゃあ泣きわめく観鈴が浮かんで消えた。
晴子は教科書を胸に抱いた。時計を見る。もう一時半をまわっていた。バイクは使えない。「自動車やバイクでの来校はご遠慮ください」だ。走れば間にあうかもしれない。いや開始に間にあわないとしても、途中だってかまわない。最後まで教科書がないことを考えれば、――
しかしそれは参観の列につらなるということだ。だってそうだ。教科書だけ届けて帰るのか。あっおかあさん、ほれ算数の教科書もってきたったでこんな大事なもん忘れんなや、うんありがとう、ほんだらそーゆーことでサイナラー、――できるわけがない。そのまま何食わぬ顔で保護者の列に並ぶ、観鈴はそれを望んでいないのに、――
「ああもう。知るか!」
教科書わすれたらしゃーないやん。届けたらなしゃーないやん。走れば間に合うかもしれへんやん。
「観鈴のアホっ」走り出しながら叫んだ。「参観日なんて子供の晴れ舞台やんか。教科書くらい言われんでも持ってったるわ!」
晴子はサンダルをつっかけて、走る。走る。
走る。
五時間目が粛々と進行していた。先生が黒板に書く。子どもが教科書を朗読する。先生が質問する。子どもたちが手をあげる。当てられた子どもが誇らしげに答える。しかしそれはどれも、けっして観鈴ではなかった。机に目をふせて目立たないようにしていた。いつものことだ。特別なことではなかった。午後の光をうけて活気にみちた教室で、そこだけ翳りをおびていた。校庭を見下ろせる窓側に座っていた児童たちがさわさわ騒ぎ出したのも、教室中央に座る観鈴には関係のないことだった。
ぺたっ。
とおくで響いた。ぴくんと観鈴の肩がゆれた。彼女のこころに直接ボールを投げこんでくるような遠慮のなさが、しかし不快ではなった。ぺったぺったぺった。あわただしい律動がどんどん近づいてくる。音が観鈴にふれるたび、水みたいに手ごたえのない心の表面につんつんと波紋がひろがる。他人事他人事。みすずちん、授業に集中するの。自分に言いきかせても、集中力を制御するだけの精神力があるわけもない。心が音に奪われてゆく。
ぺたん!
あきらかにこの教室の前で音がとまった。教室後方のドアが音をたててスライドする。そのとき廊下からたくさんの風が室内に流れ、花の匂いが頬をなでたように観鈴は感じた。芳香がやってきた人へと心をさそう。
注目があつまる、――先生が見る児童が見るそして、観鈴もまた、好奇心を抑えられなかった。見る。顔をあげて、首を回して、――
見る。
声がこぼれる。
「あっ……」
戸惑いと驚きのなかに隠された、たしかな喜びの鉱脈。
――およびでない。
――およびでないね?
――こりゃまった失礼いたしました!
頭で植木等が去っていった。晴子もいっしょに立ち去りたいと思った。教室の注目が、――
晴子の一身にそそがれていた。
まあこのくらいの気まずさも計算のうちだ。汗を流して、肩で息をして、よれよれのシャツにジーパンで、素足にスリッパ、化粧もせず、すでに授業のはじまっている教室に飛び込むのだ。このくらいは予定の、うち、とは言えないようだった。
――なんで誰もおらんのやろ。
ふしぎだった。先生はいた。子供たちもいた。が、親が。参観日に子供たちを見守る親たちがいなかった。親をのぞいた、先生と子供たちだけで、ぽかんとした表情で晴子を見つめているのだった。
誰とも目をあわせることができず、ただちにまわれ右もできず、晴子はぼんやりと黒板を見つめた。目をこすると、ポロッと目ヤニの落ちる感触が。そういえば顔さえ洗っていなかった。「月ってなに?」、黒板に書かれたその見出しの下に、すごくあかるい、形がかわる、月の石、などの子供たちが指摘したとおぼしい、月についての知識が箇条書きされていた。理科だ。まごうことなき理科の授業だ。月とか星とか、天体のはなしなのだ。
「あっ……」
そのつぶやきはちいさかったが、凍りついた教室の空気をよく走って晴子の耳にも届いた。晴子は声の主を見た。見るまでもなかった。観鈴。
それを呼び水にしたように、教室の空気が急速に生気をとりもどした。子どもたちは騒ぎだしこそしないが、この状況がいかなるものか、見きわめようと興味津々で晴子を見ている。知った顔はなかった――あたりまえだ、観鈴がクラスメートを家へつれてきたことなどないのだから。
「あのう」
黒板のまえの先生が口ごもった。晴子よりは年上だという程度の、まだ顔立ちに若さというよりは幼さを残した、女の先生だった。これも晴子ははじめてみる顔だ。名前さえ知らなかった。無関心が彼女の防塁だった。その鉄壁に、アリの穴ぐらいはこぼたれたのかもしれない、と晴子は思った。
先生は言った。
「どちらさまでしょうか」
その声はアリの穴をぬけて、晴子の心のいちばん脆いところに直接届いた。声は甘くくすぐって、心の表面にとりついたかさぶたをぼろぼろこぼした。どちらさま? 晴子はゆっくり反芻した。どちらさまって、そりゃあんた、――
「神尾観鈴の――」
観鈴の?
「――母です」
教室が一瞬わきたち、次の瞬間にはビックリ水でも注がれたみたいに沈静した。子供たちには一大事件だ――あの、神尾観鈴の母親が、とつぜん授業に乱入したのだから。じっくり推移を見守るに値する椿事だろう。先生は咳ばらいした。
「どのようなご用件で?」
「え、えーと」
算数の教科書をにぎりしめ、晴子は教室をぐるりと見回す。やっぱり親たちはいなかった。もう終わった? しかしいままさに、問題の五時間目の最中で、――晴子はプリントをもっていることを思いだした。ゆっくりそれを広げ、先生に掲げてみせる。先生はつかつか歩み寄ってきて、しわくちゃのプリントをうけとり、仔細に検分した。
そして言った。
「これ昨年のですね」
――は。
「曜日がちがうの、お気づきになりませんでしたか」
水曜日と木曜日?
「それに、右肩の日づけも昨年のものですし」
知るか! プリントの発効日まで見てへんわ! だってほんとうに、今日が観鈴の参観日で、おしらせのプリントを隠されていたことにおどろいて、だから、――顔がひどく熱かった。耳まで赤くなっていないことを願うばかりだ。晴子はおそるおそる観鈴の顔色をうかがった。軽蔑しているか、恥じているか、失望しているか。晴子と目があうと、観鈴は目をあちこちに泳がせ、最終的にふたたび晴子の目線にたどりつき、困ったように「にはは」と笑った。
晴子はすっかり脱力した。
「あー、あの、ようするに、参観日は」
先生は、太陽は東から昇りますと告げる賢者のような顔をして、固い声で言った。
「春の参観日は、ゴールデンウィーク前に終わりました」
ああ無理だ。赤くなるのを止めることなどできるわけない。子どもたちの好奇の視線が痛い、が、それはまあいい。観鈴はいよいよ気がねするだろう。かたくなになって晴子との距離を保つことに腐心するようになるだろう。いや、それはのぞむところでなかったか? 自問する。そうや、のぞむところや。いつか失うたからものを後生大事に保管しとってどうなると。手につかんあぶく銭は、蕩尽するに限る。
でも、ならなんで、ウチは、――
「神尾さん」
「ハイ」
声がうらがえった。自分ひとりの考えに落ちこんでいるからこのざまだ。緊張する晴子をよそに、先生はゆっくりしていた。
「はじめましてですね」
「はあ」
「今は授業中ですので」
「ほんますみません」
「お話できませんが、このあとお時間ありますか」
「――は、」
先生はにっこり笑った。
「臨時教育懇談会をしましょう。放課後まで、職員室でおまちいただくことは?」
有無を言わさぬ迫力。先生なんて人種は苦手や、と晴子は何年ぶりに思い知った。
「なんで去年のプリントがおっこっとったんや」
「きっと、ゴミ箱からころげ落ちたんだと思う」
「つまり去年から部屋の掃除をしてなかったわけやな」
「にはは」
ぽかっ。
「あかんやろ、自分の部屋くらい自分で掃除せな。で、今年の参観日のおしらせは」
「きちんと捨てたよ」
ぶいっ。
ぽかっ。
本気でなぐっているわけではない。しかしなにかをしていないと、どうにも気もちが落ちつかない。なんてたたきやすい頭だろう。
「まったく。まさか、この歳になって先生に小言を言われるとは思わんかったわ」
気づかれで消耗した声が晴子のくちびるからこぼれて、自分の頭にあたって地面に流れ落ちて砂になって消えたのを、観鈴はたしかに見た気がした。
「おかあさん」
「なんや」
「すごく、びっくりした」
ぽかっ。
「どうして叩くかなあ……」
「あんたのせいやろが! あんたがプリント隠しとったからこんなことになったんやろが。なんでもっと子どものことに関心をもたないのですかって、ウチが先生から怒られたんやで!」
「が、がお」
ぽかっ。
「おかげでえろう恥かいたわ」
恥、恥か。自分で言って憂鬱になる。勘違いが原因でいきなり母親が教室に闖入してきたとき、恥をかくのが母親だけであるはずがない。晴子はとっとと職員室内にある来客用ソファに移れたからまだマシだ。あのあと約一時間、教室に残っていなければならなかった観鈴の心情を思うと、――恥をかいたと観鈴の頭をたたくのも、どう考えても八つ当たりの域を出ていない。
ふたりは肩をならべて帰り道を歩いていた。はた目には仲のいい親子に見えるのだろうか。子供から参観日を知らされていなかったおどろき、ひとりで職員室のソファで待ち続けた緊張感、教育懇談と称する吊るしあげによる憔悴。ちょっと年上なくらいなのに、先生は晴子よりずっとしっかりしていて、まるで祖母が孫に道理を言い聞かせるように滔々と母の心構えを晴子に説いたのだった。なぜ休日に、いい歳した社会人が、重い気持ちをひきずってわざわざ学校から帰らねばならないものか。娘とのあいだに漂う気まずい空気。永い沈黙に耐え切れなくなったのは観鈴のほうだった。
「あのね」
「あん」
「わたし、授業がおわったあと、みんなに囲まれた」
「さよか」
眉間にふかい皺をきざむ。ただでさえ周囲から疎まれている子だ、あんな目立つことがあれば標的になってもふしぎではない。すまん、と口にでかかって、やはりひっこめた。いまさら謝るなんて卑怯だ。どんなつらい思いをしていたとしても、観鈴は笑って赦すだろうから。が、謝る以外になにができるだろう。晴子は足をとめた。観鈴も足をとめた。晴子はじっと、観鈴を見つめた。もしこの子がつらい目をみたとするなら、それを正面から受け容れてやることのほか、晴子はなすべきことを思いつかなかった。
観鈴は笑顔で言った。
「あのね、みんな、わたしがうらやましいって」
「――は、」
「おかあさん、とっても若くてきれいだって。こないだの参観日のあと、みんな、だれのおかあさんがきれいかって話してたの。もちろんわたしは、話に加わらなかったけど。わたしはそばで聞いてただけ。にはは。で、いちばんきれいってなったのは、渡辺さんのおかあさん。渡辺さんもきれいだけど、おかあさんもきれいだったの。わたしもそう思った。渡辺さんみたいなひとと友だちになれたら、たのしいだろうな」
「さよか」
「だけど、だけどね、――」
うれしそうに話す観鈴。こんなに楽しそうに学校のことを話したことが、いままであっただろうか。晴子は自問した。なかっただろう。しかし記憶にないだけかもしれない。いったいいままで、どれだけ観鈴の話をまともに受け容れてやったことがあったというのか。
「――だけどね、おかあさんのほうがずっと若くてきれい。背もたかいし。みんなおどろいてた。それで授業がおわったあと、みんなでおまえのかーちゃんきれーだなって、言ってくれた。みんなが言ってくれるばっかりで、わたしからはあんまり話せなかったけど。でも、うれしかったな」
晴子はぽかんと観鈴を見おろしていた。あたりまえの話だ、実際ほかの子供たちの母親より、十歳は若い。観鈴が実子だとすれば、法的に結婚できない年齢でもうけたことになる。
しかし、――
「そっか。うれしかったか」
「うん」
力強くうなずく。晴子は笑うかたちにくちびるをゆがめた。観鈴のことばすべてをバカ正直に信じるほど愚かでなかった。たしかに晴子のことを誉めた子供たちもいたのだろう。が、同時に、カンチガイの母親を馬鹿にした者がなかったとも思えない。しかしほかならぬ観鈴が、いいことしか言わないなら、それがすべてと受け容れるほか、晴子にはなかった。悪いことまでほじくってもしかたがない。観鈴が自身で自身を幸せな記憶で埋めようとするのなら、それはけっして悪いことではないし、――すくなくとも他人に迷惑をかけることではないし、――子供なりに、つよい心で生きようとしているあらわれだろう。
観鈴はつよい。そのほかのだれよりも、晴子より。
「それにね」
「なんや」
「すごくいい匂いがしたの。おかあさんがドアをあけとき、教室に風がはいってきて、そのとき花のにおいがした。わたし、その匂いだいすき」
「匂い?」
言われてはじめて気づいた。しかし晴子は香水のたぐいをほとんどつけない。酒精が彼女の匂いなのだ。まして花の匂いなど、――腕のまわりにあちこち鼻をあててみる。たしかにあまい匂いがした。いぶかって、折り曲げた袖のなかに指をつっこむ。なにかがさわった。指でつまんでひきずりだす。
「――つつじや」
ちいさな枝についたふた房の花。よろめいてつつじのなかに手をつっこんだとき、折れた枝が袖まくりのなかにのこったのだ。こんなものが、こんなちっぽけなものが観鈴へ香りを運ぶのか。晴子は微笑した。
「どうしたの、それ。香水のかわり?」
「これか。これはな――」
おまえのおかあさんが好きだった花や。そう言おうと思って、実際に言ったことは、
「おやつやな」晴子は花をひと房もぎとり、尻から蜜を吸った。「いるか」
「うん」
晴子は観鈴にもあたえた。たのしそうにちうーっと吸う。姉は、たしかにつつじが好きだった。しかしけっして、こんなつつじの楽しみかたをするひとではなかった。花は花として愛でる。花を手折って食らうような晴子のふるまいを、上品な姉は嫌っていたかもしれない。この子はむしろ、あの姉よりも、――
「観鈴」
「なに?」
「つつじはな」
「うん」
「――おかあさんが好きだった花や」
観鈴は首をかしげた。
「はじめて知った」
「そやろな」
「おかあさん、つつじが好きだったんだね」
まっすぐ晴子を見つめる瞳。あれ。おい観鈴、勘違いしてへんか。それを好きだったのはおかあさんじゃなくて、おかあさんのほう、――ああ。
そうか。
いまはウチがおかあさんなのか。
「観鈴」
「うん?」
「これから、プリントはぜんぶ見せ」ぶっきらぼうな切り口上。
「え?」
「参観日のおしらせだろうが遠足のおしらせだろうが身体測定のおしらせだろうが、ぜんぶウチに見せ。参観日くらい出たる。今日みたいなみっともない思いはもうごめんや」
「――来てくれるの」
その目に希望がゆらめいたと見るのは、晴子の願望だったろうか。観鈴は瞳を、かたくなな色でかためていた。晴子に頼らないように身をひいている。晴子はため息をついた。
「保護者の義務やからな。休みがとれるかだってわからんし。そのかわり、もしウチが出席できたら、あんたはりきって手えあげや。観鈴のいいとこ見せてえな」
「う、うん。がんばってみる」
観鈴はこぶしをかためて決意する。かなり無理をしている。わかりもしないのに手をあげたりして、泣きべそかかなきゃいいんやけど――まあそれでもええか。がんばりゃええんや。晴子はひとりで納得する。どこか満足げな表情を、しかし観鈴はおっかなびっくりの顔でのぞきこんだ。
「おかあさんの迷惑じゃ、ないかな」
「今日みたいなののほうがよっぽど迷惑や」
「うん、義務だもんね。――義務でも、うれしい。うれしかった。教科書もってきてくれたことも、――先生に、わたしのおかあさんだって言ってくれたことも」
笑って、駆けだした。あんなことでよろこぶなんて、ふだんどれだけ、うれしいことに慣れていないのだろう。いったいこの子は、どれだけのよろこびを欲しているのだろう。まるで大昔からの習い性みたいにしあわせを渇望する純粋な心。晴子はとおくなる観鈴の背中をじっと見つめる。かわいいなあ、とうっかり思う。何年もともに暮らしているのだ。情くらい移る。血が水より濃いのだとして、血なんて怪我でもしないかぎり目に見えやしないのだ。おたがいが目に見えるほどそばにいる、その事実がどれだけふたりのこころを近くするか。
――だったらウチは、なんであの子の背中に追いついて、抱きしめてやらんのやろう。
晴子は頭をたたくほか、まったく観鈴の体にふれていないことに気づいた。肌のふれあいをもとめ、ほかの方法を知らないような不器用さで、なにかと口実をつけて娘の頭を叩きつづける自分に。
観鈴の背中が遠ざかる。義務という甲冑は重すぎて、晴子は自由に動けない。ちいさな背中は遠くなるばかりで、けっして自ら近づいてくることはない。風は潮の匂いを含んでいる。枝からもがれて蜜を吸われた花はもう香らない。まもなく夕凪がやってくる。空気はすべて沈滞して、ひとを闇のてのひらに返すだろう。光のただしい見つけかたを晴子はまだ知らなかった。やがて死が、彼女に光と風をあたえるだろう。